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原作を観ずに二次創作の絵を描くことってどう思いますか?

自分は5年前に、どこから仕入れたのか、『幽幻道士』の可愛いイメージがムクムクと膨らんでたまらなくなり、原作を観ずに、上の絵を描きました。

マンガの初期衝動とは手に入らないオモチャの絵を紙に描くことだと考えてるので、「観てないものを描く」ということ自体はマンガ的にはありです。しかし自分は大の大人であって、「手に入らない」というのが「お金がなくて…」とかではなく「観る時間がだるい、面倒くさい」でしかないのがさすがにダサいですね。観るためのコストを惜しんでいて愛がないです。大人になると言い訳がきかないものです。

でも観てないくせに一応こうして描けたのは、幽幻道士が引用された他の表現を観ていてあらましをなんとなく知っていたからです。なんとなくあらましを知っているとは要するに知ったかぶりのことで、それがダサいという話なんですが、グーグルやウィキのおかげで誰でも簡単に知ったかぶれる今、むしろ、まとめサイトやファスト映画など、なんでも手短に説明することが善いとされる価値観の中では、やたら知識を持つこと自体がマウンティングと見なされかねなかったりするし、少なくとも知識がないことが恥ずべきことだと指弾される機会は格段に減ってきたと思います。

以前、人気のジャンプ漫画の二次創作絵がバズっていて、描いた人のツイートを見ると「いつか読んでみたい」と書いてあって、あっ原作を読まないで描いたことを全く隠そうとしてない、と驚いたことがあります。そう表明した上でじゅうぶんバズれている以上、原作をよく知らずにガンガン描くほうが絵師の方にはコスパも良いでしょうし、原作を観ずに描かれた二次創作絵は、我々が気づかないだけで多分とても広く蔓延っていると思います。

他方では、そうしてコスト面から愛を定量化することが正当化される世の中で、あえて愛を表現しようとするとき、こんな状況に対するより明確な抵抗の表明として、過度に作品を神秘化するオタク語りが好まれるというカウンター傾向も顕著にあって、いかに自分が作品に取り憑かれ正気を失ったかの説明に文字数が割かれ、それで順調にバズっている現状を見ると、定量化の逆張りとしての神秘化もそれはそれでやはり不自然さが引き継がれているように感じます。

そもそも知ったかぶりには、あらまししか知らず細かな部分を知らないため細やかな気遣いができないという限界があって、そういう所作が求められない場ではとがめられなくても、その細やかな気遣いはその人の生きてきた時間を表してもいるので、それなりに人格を表現する指標だなというのが自分の感想です。

わりと早い段階で話をすり替えて言いたいことを言ってしまいましたが、とにかく、この二次創作絵から5年後に初めて観た『幽幻道士』は想像してた10倍かわいく面白かったです。