Suffer

最近、自分がマンガを描きはじめた頃の、初心を見つめ直しています。自分がエドワード・ゴーリーに影響を受けたことについて書きます。

(マタイによる福音書19:14より)あるとき人々が子供らを連れて大挙し、イエスに対し、子供の頭に手をおいて祈ってやってください、と口々に求めた。イエスの弟子らは彼らを追い払おうとしたが、イエスは弟子らを制止してこう言った「子供たちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」

Suffer little children, and forbid them not, to come unto me: for of such is the kingdom of heaven.”

↑このsufferを「苦しめる」と訳すると「子供たちを苦しめなさい」となり、えっどういうこと?と混乱しちゃいますが、sufferには「許可する」という意味もあって、上の訳文になるのはそういうわけだそうです。

ものの本によるとこの聖書のことばを、獄中のマイラ・ヒンドリーが唱えたそうです。マイラ・ヒンドリーは共犯者イアン・ブレイディと共に1960年代のイギリスでムーアズ殺人事件と呼ばれる最悪の児童連続殺人を行いました。凶行の現場となったマンチェスターで、被害児童らと同じく幼少期を過ごしたモリッシーは、のちにThe Smithsでこの事件を題材にとって書いた曲を発表していて、そのタイトルを “Suffer little children“としましたが、モリッシーはこの本の読者だったということです。

聖句については、実際はマイラ・ヒンドリーがただ敬虔な気持ちで唱えただけのものを頭が切れる記者が皮肉に切り取って書き立てたのかもしれません。あえてそう扇情的に書いたのは、倫理の危機に対する警告や、読者を啓蒙する効用も見込まれていたかもしれません。それを引用したモリッシーには当事者としての切実さがあったと想像します。(ところで、先述のThe Smithsの曲では、マイラ・ヒンドリーについて歌われる一方で共犯者イアン・ブレイディについては一切言及がありません。そこは不思議で、どういう意図かわかりません)

自分は当事者ではなく、ただただ鋭い皮肉に興味を持つ野次馬でした。sufferの異なる2つの意味によって、さらにそれにつづく聖句がますます印象がおそろしく異なり、それでもなお、どちらの意味でもそれぞれ文章として矛盾なく読めてしまう、のみならず、そんなレトリックの遊戯性が吹っ飛ぶほど衝撃的な現実と紐づいている、これらによって、『その聖句をマイラ・ヒンドリーが唱えたらsufferが「子供たちを許可しなさい」じゃなくて「子供たちを苦しめなさい」になっちゃうでしょうが』と洗練された感慨を持つことを可能にしてくれる格好の皮肉が完成していることこそが、自分にとっては重要でした。

ムーアズ殺人事件は大変衝撃的だったため、触発された作品も多いようで、エドワード・ゴーリーの絵本『おぞましい二人』(1977年)はその一つです。著者ゴーリー自身がかつておびただしい子供の死を作品内で描いてきたため、二人の犯人に自らをなぞらえ自嘲しているとも言われる内容ですが、画面を埋め尽くすペンのストロークが非常に印象的で、自分はその画風に大変つよく影響を受けました。その画風そのものが一つの魂を表しているように自分は感じました。

sufferの異なる2つの意味の際立った差異から生まれた強烈な皮肉の感覚が、影絵のように自分の脳裏に焼き付いており、自分を駆り立てました。今思うとそれは単に自分の中で燃え上がるゲス心が投射した幻影にすぎないのですが、どす黒く、激しく、執拗で、空疎なその魂は、たしかに、画面を埋め尽くすペンのストロークによく似ていたように思います。

(最近、自分がマンガを描きはじめた頃の初心を見つめ直しています)